頑張らないように頑張る。

怠惰と努力の狭間

言葉は切り取らず、全体で捉える。

久々にバズったのでその話でも。

バズったって言っても、バズってるやつに引用RTしただけだけど。

救急隊員がコンビニとか寄っていいかどうかの話

流れはこの辺にまとまってるので、外部参照で。 snjpn.net

名古屋市消防局が「コンビニ等で飲料水など購入する場合がある」という旨の連絡をTwitterにて投稿。
(元ツイート => tweet)

この投稿について世間はどう感じているのかを、とくダネ!が街頭インタビューを実施。
批判的な声もありながら、アンケート結果は賛成派が多数。

この放送を受けて、とあるツイッタラーが「快く思わないという回答。マジか、このオバさんたち...」と投稿。
これがバズり、批判的なコメントがリプライ欄に数多く寄せられた。

どこに引っかかったのか

僕もこの放送をリアルタイムで見ていたが、少なくとも1,2枚目のお姉さんは、非難される対象ではないと考える。
何故なら、1,2枚目の間にもコメントがあり、そこが抜けているからだ。

これについて言及したツイートが以下。

1,2枚目の間には「冷静に考えたら買わないと身体持たないですよね」というコメントがあった。
つまり、ツイート主の情報には抜けが生じているのだ。

(先に言っておくが、僕はツイート主を批判するつもりも、テレビ局を批判するつもりもない。
 あくまでも、1,2枚目のお姉さんは非難されるべきでないと考えているだけであり、非難の種を潰したいだけである。)

それぞれの言葉を、単体で考えてみる


というのはお門違いである。


言葉というのは前後があって成り立つものであり、単体で捉える事は難しいからだ。

以下に、単体で捉える事が、短絡的であり、哀れである事を記す。

「救急車の中に(飲料を)1日分置いておくことは出来ないのかな」

この言葉について、批判的なコメントを書いている人は、以下のような事を言っている。
「救急車に乗ればそんなスペースない事分かる」
「飲料が機材にかかったらどうするのか」
「飲料置くスペースがあるなら他の機材を置け」

「我慢して無理して次の現場に行って倒れられてもそれこそ困ると思うので」

この言葉について、批判的なコメントを書いている人は、以下のような事を言っている。
「『倒れられても困る』って何様だよ」
「『困る』って自分本意で考え過ぎ」


それぞれ見れば分かるとは思うが、単体でしか捉えていない。


次に、1,2枚目の間の言葉も踏まえた上で、流れで捉えてみる。

  • 「救急車の中に(飲料を)1日分置いておくことは出来ないのかな」
    • 少し批判的な印象を受ける言葉であるが、ただの疑問が口に出たという捉え方もできる
    • そのため、この時点では批判的なのかどうか判断がつかない
  • 「冷静に考えたら買わないと身体持たないですよね」
    • 元々抱いていた考えを改め、消防隊目線になった上で、水分補給の重要さについて気付いたような言葉であり、譲歩が見られる
    • 元々抱いていた考え≒批判的な考えであったと予測はできるが、譲歩が見られる事に変わりはない
  • 「我慢して無理して次の現場に行って倒れられてもそれこそ困ると思うので」
    • 「困る」については、自分なのか、消防隊なのか、救助者なのかは不明
    • しかしながら、前のコメントで譲歩してから出てきた言葉であるため、自分ではなく、消防隊または救助者に対する「困る」だと判断できる


こうして流れで見てみると、「元々批判的な意見を持っていたものの、インタビューを受ける中で冷静になり肯定的な意見に変化した」と考えられる。
(少しポジティブに考え過ぎてはいると思うが、単体で捉えるよりは建設的な思考と考える)


さて、先程の「単体で捉える事が、短絡的であり、哀れである」について言及しよう。

まず最初のコメントについての批判だが、
「救急車に乗れば分かる」なんてのは知識や経験の問題であり、思考の問題ではない。
また、救急車に乗る機会なんて滅多にないのに「乗れば分かる」なんてのは適当にも程がある。
「飲料が機材にかかったら」は、そんなやわな機材を使うわけもなく、嘔吐や吐血にも耐えられる機材を使っているであろう。
(僕もあまり分からないため、憶測ではあるが、、、)
「他の機材を置け」についても、機材を置いても、それを使うのは消防隊である。
その消防隊が倒れては機材を置いても意味はないため、消防隊が倒れない仕組みが大切になるため、お門違いな批判である。

次のコメントについては、ポイントになるのは「困る」の部分である。
先程も言ったが、「困る」の対象が、"自分"なのか、"消防隊"なのか、"救助者"なのか。
"自分"であれば、批判されるべきであると僕も思う。
"消防隊"や"救助者"であれば、他人を思いやる気持ちを表れに感じ、批判されるべきではないと思う。
批判している人は「何様だよ」「自分本意」と言ってるため、"自分"と捉えているのだと思うが、言葉を流れで捉えれば"自分"である可能性が低くなる事が分かる。

また、「冷静に考えたら...」に対しても、「冷静に考えなかったら否定派なんでしょ?」というコメントを見かけた。
ヒトという生き物は、意見を簡単に変えるし、それは良い事だし、そうあるべきなので、冷静に考えるきっかけがインタビューだったというだけで何の問題も感じない。
「元の意見は変えるな」という声もあったが、それが通じるなら、今でも黒人差別はなくならないし、ユダヤ人は迫害されているはずである。
それがなくなっているのは、人々が冷静になり、意見を良い方向に転じたからに他ならない。


以上の事から、言葉を単体で捉えると、短絡的な思考回路をしており、哀れみさえ覚える事に共感していただけるであろう。

情報の切り取りと隠蔽

「メディアが情報を切り取る〜〜」とはよく聞く話で、ニュースなど見ているとそう思う事は数多くある。
しかしながら、それを視聴者が行うのは如何なものだろうか。


メディアであれば責任の所在ははっきりするが、視聴者になると責任の所在が不明瞭になる。

例えば本件のように、テレビでは肯定的な意見を述べていたにも関わらず、視聴者の切取りにより批判的に映り、それが拡散される。
これによってお姉さんの名誉が毀損された場合、どこに責任が生じるか。


とはいえ、自分が思い描く理想の世の中になってほしいという気持ちは、誰しも持っている感情である。
その理想のために、情報を切り取る事で隠蔽するというのは、手段としては納得がいく。
しかしながら、そのために第三者を生贄に捧げるのは、「お前が理想としてた世の中はそれでいいのか?」という気持ちになる。

まとめ

言葉や文章は、区切ったり単体で捉えてしまうと、多大なる誤解を生む。

例えば「死ねって言われた。」という言葉があったとする。
ここだけ見ると、「可哀想」「言った人は酷い」という感想が出てくるだろう。

しかし、「僕が先に悪い事をした。だから、死ねって言われた。」だったとすると、
可哀想や酷いといった感想は、そう簡単には出てこない。

文章の中の一箇所だけ切り取って、他を隠蔽し、それに対してコメントするのは、何度も言うが、あまりにも短絡的であり、哀れである。